与那国島の歴史を知るため、一四七七年(成宗八年)に済州島から漂流して与那国島に漂着し、先島諸島・琉球・日本を経て一四七九年(成宗十年)に帰国した金非衣(キム・ビウィ/김비의)・姜茂(カン・ム/강무)・李正(イ・ジョン/이정)三人の供述記録を、原文に忠実な日本語で読めるようにしたい、というのが本件の目的。
この供述は『成宗実録』巻一〇五、成宗十年(一四七九)六月十日乙未 第一記事「済州島漂流人金非衣らから琉球国の風俗と日本国の事情を聞く」に収録されている。十五世紀の八重山・宮古・沖縄本島の生活誌を外部者が記録した最古級の民族誌であり、史料的価値が高いにもかかわらず、ウェブ上で通読できる日本語の全訳が見当たらない。
日本語版ウィキペディア「与那国島」の「朝鮮王朝実録の記録」節には部分訳があるが、(a) 与那国島+西表島の途中までで打ち切られており全体が読めない、(b) 誤訳が混入している(例:「以杖擬之而禁」を「杖打ちの刑罰を与える」と訳しているが、正しくは「杖で制止する」。「雖啼哭不加手焉」を「いくら泣いても放っておく」と訳しているが、正しくは「泣いても手を上げない=叩かない」)、(c) 原文が併記されていないので検証できない。
そこで、漢文原文と現代日本語訳を対照でき、島名比定と訳注を備えた一ページを作る。
一四七七年、献上のみかんを積んで済州島を出た船が東風に流され、十四日目に与那国島沖で砕けた。生き残った三人は、島から島へ順に送られて二年二か月をかけて帰国し、見てきたものを王の前で語った。十五世紀の八重山・宮古・沖縄本島を、外から来た者が記録した最古級の証言である。以下はその全文の日本語訳で、漢文原文と対照できるようにした。
底本 国史編纂委員会「朝鮮王朝実録」データベース 記事ID kia_11006010_001(太白山史庫本 一六冊一〇五巻一三張A面/国編影印本 一〇冊二五面)。
訳出 漢文原文から訳し、同データベースの韓国語国訳を解釈の対照に用いた。
| 実録の表記 | 韓国語音 | 比定地 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 閏伊是麼 | 윤이시마 | 与那国島 | 定説 |
| 所乃是麼 | 소내시마 | 西表島(祖納) | 定説 |
| 捕月老麻伊是麼 | 보ᄃᆞᆯ로마이시마 | 波照間島 | 定説 |
| 捕剌伊是麼 | 포라이시마 | 新城島(パナリ) | 通説 |
| 欻尹是麼 | 훌윤시마 | 黒島 | 通説 |
| 他羅馬是麼 | 타라마시마 | 多良間島 | 定説 |
| 伊羅夫是麼 | 이라부시마 | 伊良部島 | 定説 |
| 覓高是麼 | 멱고시마 | 宮古島 | 定説 |
| 琉球国 | 유구국 | 沖縄本島(首里) | 定説 |
| 覇家臺 | 패가대 | 博多 | 定説 |
| 軾駕 | 식가 | 志賀島 | 通説 |
| 鹽浦 | 염포 | 蔚山・塩浦 | 定説 |
| 打家西浦・草那浦 沙浦・都伊沙只浦 | — | 所在未詳 | 未詳 |
(債)〔漬〕 は校異記号で、「底本は〈債〉に作るが〈漬〉に改める」意。訳文には改めた字を反映した。三人は与那国について「風習に酋長がなく、文字を知らない」と述べる。村々が順番に食事を持ち回る相互扶助、盗みがなく落ちものを拾わない、泣く子に手を上げない──統治者を持たない共同体の姿が、朝鮮の官僚機構を知る目から記録されている。
八重山の島々では、土をこねて焼いた鍋が五、六日で割れると記される。琉球国から交易で得た鉄の鍋が初めて現れるのは宮古島であり、便所のある家が現れるのも宮古からである。琉球王国の交易圏の外縁がどこにあったかが、道具の分布として読める。
三人は琉球で、漆塗りの輿に乗る国王の母と、十歳あまりの少年の行列に出会い、道端で拝謁して酒をふるまわれている。「国王が薨じ、跡継ぎが幼いので母后が政を執る」という説明は、尚真王とその母が政を執った時期に対応するとみられる。
市には綾錦や苧布とともに、南蛮国の斑木綿、白檀、東南アジア産の木綿、磁器が並ぶ。中国人が瓦葺きの家を構えて住みつき、通訳は在留日本人が務めた。十五世紀後半の琉球が中継貿易の結節点であったことが、買い物の品目として記録されている。
博多では大内氏が少弐氏を攻める合戦に居合わせ、三、四万の軍勢と、竿に掛けられた六つの首を見ている。落武者の略奪を恐れて六か月足止めされた。帰路が長引いた理由は、海ではなく陸の戦乱だった。
琉球で素性を問われた三人は、「朝鮮国の海南の者で、献上の米を運ぶ途中に風に遭った」と申し合わせて答えている。実際には済州の者で、積荷はみかんだった。なぜそう答えたのかは記事に書かれていない。